見沼通船堀のこと


関東郡代・伊奈忠治は八丁堤を築いて見沼という広大な溜井(ためい)を現出させました。これにより、溜井の下の村(浦和、戸田、笹目など)の約5,000町歩(5,000ha)の水田が慢性的な水不足から開放されました。嘉永6年(1629)のことでした。

時代は100年ほど下り享保年間、紀州藩主・吉宗が八代の将軍に迎えられました。歴史の授業で習った『享保の改革』が行われた時代ですね。吉宗は逼迫した幕府の財政を立て直すために質素倹約と新田開発の政策を打ち出しました。
新田開発で目を付けられたのが見沼溜井の広大な土地でした。江戸に近く、何かと都合が良かったのでしょう。

八丁堤の一部を切り開いて見沼溜井の水を抜き、干拓するというこの事業の責任者が井沢弥惣兵衛(いざわ やそうべえ)という人です。

その後、弥惣兵衛は見沼溜井に替わる灌漑用水確保のため、利根川から水を引きました。これが見沼代用水です。さらにその用水の東西縁から芝川へ船を通すための堀を開削しました。これが見沼通船堀です。下の地図の通り、芝川を挟んで東西二つあります。

通船堀の地図

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